備後国三原城(浮城)絵図
〜 三原城と三原について 〜

備後国三原城絵図(江戸時代のもの)
 

 三原市は、3年前に三原市・本郷町・久井町・大和町が新設合併したまちです。

 中心部と考えられている場所は、三原市港町・三原市城町地域ですが、この場所に400年以上前に築城された城があります。それが「三原城」です。
 三原城は別名「浮城(うきしろ)」と言い、水軍を統率するための要塞でもありました。


 三原城は、戦国時代の武将、小早川隆景の築城した城で、江戸時代に、広島福島氏の支城となり、その後、広島浅野氏の家老の住む支城になりました(家禄は3万石だったそうです)。
 江戸時代が終わるまでは、三原城はその姿をとどめ、城下町を形成していましたが、明治のころ、日清戦争勃発のため、下関までの鉄道敷設が重要課題となりました。その鉄道を施設するため、ルート上に存在する三原城は破壊されました。決定的な破壊は1975年の山陽新幹線の開通による三原駅の設置でした。

 そのため、現在は天主台と舟入櫓が現存するほか、建築物が各所に移築されたり、石垣が再利用されたものが三原市中心部に点在しているような状況です。

 しかし、三原というまちの原点は、やはり小早川隆景公の築城した「三原城」にあります。

 小早川隆景公は、毛利元就の3男で、もっとも毛利元就の血を受け継ぎ、智謀の武将として知られています。現在も三原の文化として継承されている「神明市」や「やっさ踊り」も、隆景公にまつわるエピソードがあります。
 三原と隆景公は密接な関係であると言っても、過言ではありません。

 小早川家の本流をたどると、神奈川県湯河原町の土肥家につながります(ですから、湯河原町と三原市は友好都市関係を結んでいます)。
 土肥氏は鎌倉時代の武将で、源頼朝の家臣です。その一派として、源平合戦後に(沼田荘:現在の三原市本郷町あたり))に地頭として入ったのが小早川家だったのです。
 小早川家は当初、三原市本郷町にある高山城を拠点としていました。
 戦国時代に、毛利家から隆景公が竹原小早川家(小早川家の分家)に養子として入り、その後沼田小早川家を統合し、高山城の沼田側の対岸の山に「新高山城」を築いた後、水軍の重要性に着目した隆景公は三原城の築城に取り掛かりました。

 三原城の築城後、隆景公は拠点を移し、新高山城を廃城としました。そのとき、多数の寺院が三原城付近に移築されています。隆景公は、これにより三原城とその周囲を、完全な要塞化しました。


 三原が城下町として栄えることになったのは、関が原の合戦後、福島氏が三原城に入城した後のことになります。
 そして、明治までは、三原は城下町として栄えたのでした。